90歳代の認知症患者が病棟で転倒し、全身麻痺の後遺症を負ったとして裁判所が病院に2000万円以上の支払いを命じた、という事例がありました。
患者さんやご家族に対しては大変気の毒に思いますが、医療者側に賠償責任が生じたことには驚きました。
裁判では、
「転倒する危険性は予測できた」
「速やかに介助できるよう見守る義務を怠った」
と指摘されたようですが、現場感覚としては少々「無理な注文」と思わざるを得ない部分もあります。
むろん、やむを得ず訴訟に至るだけの事情があったのでしょうし、その背景について十分に知らない第三者がとやかく口出しする筋合いは全くありません。
そこでこの記事では、「一般論として」病棟での患者さんの転倒にどのように対応しているか、について書いておきたいと思います。
おそらく、非医療者の方が驚くほど、医療スタッフは「転倒」をシビアに捉えているからです。
(※私の経験を元に書いているため、施設によって扱いに差があり、例外もあります)
転倒を防止するために
まずは、普段よくある例を紹介します。
当直中、ようやく仮眠が取れる時間帯になり、少しうとうとしかけたタイミングで病棟からコール。
「〇〇さんが転倒しました。バイタルは問題ありませんが、頭部を打撲されています。診察お願いできますか?」
※バイタル(バイタルサイン):血圧や脈拍、体温など生命維持に重要な機能を表す指標
私は病棟に行き、患者さんを診察し、大きな問題がないことを確認するか、必要であれば検査を行います。
たとえ軽症でも、たとえ真夜中でも、「患者の転倒」は医師を叩き起こすくらい重大な扱いです。
場合によっては、担当看護師が再発防止と問題共有のため、インシデントレポートと呼ばれる報告書を書いて提出します。
必要ならその場でご家族に連絡し、状況を説明することもあります。
実は病棟ではこういうことが日常的にあります。
患者さんの転倒は非常に大きな問題として扱われ、いかにこれを防ぐかについて、スタッフらは日々頭を悩ませています。
転倒リスクの高い方には、
「ベッドを離れる時は必ずナースコールするように」
と重々説明します。
トイレなど何かの用事で患者さんが移動する時は、常に看護師が付き添います。
しかし、残念ながら高齢者や認知症患者でこうした忠告をきちんと守れる人は多くありません。
何も言わずにベッドを離れ、気づかぬうちに転倒してしまうこともあります。
病棟には他にも慎重な看護を要する重症な患者さんもいますから、看護師は転倒リスクのある患者さんだけを24時間常に見張っているわけにはいきません。
また、体格のいい人だと、たとえ見守っている最中でも転倒を防げないことがあります。
そもそも人は、立ち上がろうとした瞬間に転倒します。
患者さんをすぐ横で見守っていても、突然もたれかかってくるように転倒すると、支えきれずに医療スタッフも一緒に転倒する、という事例もあります。
人間一人の力で大人の転倒を防ぐには、物理的な限界があります。
そこで、病棟では様々な医療機器を使い、さらなる予防策を講じています。
具体的には、以下のような仕組みです。
・患者さんが踏むとナースコールが鳴るようにしておく特殊なマット(枕やベッドに置くタイプ、床に置くタイプなど様々)
・患者さんがベッドを離れようとするとコールが鳴る赤外線センサー
・患者さんがベッド柵をつかむとコールが鳴るセンサー
・患者さんが部屋を出ようとするとコールがなるセンサー
・患者さんの襟元にケーブルをつけ、離床しようとするとケーブルが抜けてコールが鳴るもの
とにかく、病棟ではあの手この手を使って患者さんの転倒を防止しようとします。
リスクの高い患者さんは、こうした機器を二重、三重にも使用します。
病棟でこのコールが鳴ると、看護師の誰かが仕事の手を止めて病室に走る、という光景が毎日のように見られます。
しかし、機器の数に限りはあり、全患者には使用できませんし、センサーを上手にすり抜けてベッドを離れる患者さんもいます。
また、転倒はベッドサイドに立った瞬間から起こりうるため、仮に機器が反応しても介助が間に合わないことがあります。
入院している患者さんは誰しも体に何らかの不調を抱えているため、転倒リスクが高いと見なされていない若い方でも思わずふらつくことがあります。
どうしても転倒をゼロにすることはできません。
全ての患者さんを速やかに介助して転倒を防止することは、現実問題、不可能です。
よって医療者にとって重要なことは、
入院中の転倒リスクはゼロにはできないこと、転倒した際には骨折や頭蓋内の損傷など様々な問題が起こりうることをご本人、ご家族に十分に説明し理解を得ること
であり、患者さん側に伝えたいことは、
入院患者(特に高齢者や活動性の高い認知症の方)の転倒に関して、ゼロリスクを求めてほしくない
ということです。
以上のことはもちろん、病院だけでなく介護施設でも同様です。
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ゼロリスクを求めると医療は崩壊する
あらゆる医療行為にリスクはあります。
医療を受ける以上、リスクをゼロにすることはできません。
しかし、「医療者の過誤」とは言えないような、防ぎようのない問題が起きても、現場に責任を求めるような事例はこれまで多数ありました。
こうした事例は医療現場を萎縮させ、これが必ず「リスクの高い行為は避けよう」という動きに繋がります。
転倒ゼロを目指すなら、なるべくベッドから動かさないように、という方向に意識は傾くでしょう。
転倒リスクが高い方は、腰にベルトを巻いてベッドに固定したり、鍵がないと外せない特殊な手袋をする「抑制(拘束)」の敷居を下げざるを得ません。
本当は、高齢者はじっと寝ているより積極的に体を動かす(離床(りしょう)する)方が、体の回復は早く、認知症の進行を防げる可能性も高いことをスタッフは知っています。
しかし、万が一患者さんが転倒したら法的責任を問われるかもしれない、という恐れがあれば、転倒防止を優先せざるを得ません。
ゼロリスクを現場に求めてしまうと、結局これが患者さんの不利益となって跳ね返ってきます。
もちろん医療者がリスクを下げるために最大限努力することは必須で、これは言うまでもないことです。
しかし、メディアを含め非医療者側がリスクを理解し許容することもまた、よりよい医療の実現にとって大切だと私は思います。
(※本記事の機器使用に関する情報は、看護師ライターの白石弓夏さん(@yumika_shi)にご協力いただきました)