私が医学部の学生時代、手術見学をして最初に驚いたのが、外科医が執刀時に「メス!」と言わなかったことでした。
医療ドラマのイメージで、外科医が手術を始めるときは必ず「メス!」と鋭く言い放って、器械出しナースからメスをサッと受け取るものだと思い込んでいたからです。
ところが実際には、
「じゃあ始めます。メスください」
でした。
正直言って、「ドラマより全然かっこよくないなぁ」と残念に思ったものです。
もちろん「メス」と道具名だけ言う外科医もいますが、私を含め多くの外科医は、最初は丁寧に、
「メスください」
「メスお願いします」
と言って丁寧にメスを受け取って皮膚を切ったのち、
「はい、メス返します」
と言って丁寧に返します。
メスは、皮膚が驚くほど抵抗なくパックリ切れる危ない道具なので、他のどんな道具よりも丁寧な受け渡しが求められます。
他の道具なら、外科医が道具名だけを言い放って手を出せば器械出しナースが道具を渡してくれます。
しかしメスのように鋭利なものは、お互い必ず目視で確認して受け取り、返すときも必ず「返します」と言うのが理想的です。
以前私が勤務していた病院では、この受け渡しがうまくいかず、メスを落として看護師の足の甲に刺さって怪我をするという事故が起きてしまいました。
とにかくメスの受け渡しは丁寧に、が鉄則なのです。
私はこれまでブログやSNSで、多くの方々とコメントのやり取りをしていますが、その中で手術中のことに関して、
「ドラマではこうだけど実際はどうなのか?」
という質問をたくさんいただいています。
今回は、これを一つの記事にまとめてみたいと思います。
ただし、私がこの記事を書く理由は「ドラマをリアルにしてほしいから」ではありません。
それどころか、むしろ今回挙げる項目については、「リアルにしないでほしい」とすら思います。
外科手術というのは、実際には非常に「地味」で、本当にリアルにしてしまうとドラマは全く面白くなくなります。
外科医としては、当然ドラマで外科医がカッコ良く描かれることが嬉しいわけです。
あくまで「実際はどうなのか」の紹介と思ってお読みください。
「汗!」とは言わない?
手術中に「汗!」と叫んで看護師に汗を拭いてもらう、という描写は、外科系ドラマの定番ですね。
中には「汗!」と命令口調で言う人もいるかもしれませんが、普通は、もし手術中に汗が垂れそうなら、
「すみません、汗を拭いてくれませんか?」
と看護師に言います。
そもそも手術中に汗が垂れてしまうのは本人の準備不足も原因ですし、術者にとっては少し恥ずかしいことでもあります。
手術中にかぶる帽子の中には、おでこの部分に吸水パッドがついているものもあり、汗かきの人はこれを選べばあまり汗が垂れることがありません。
これでも吸水できないくらい汗かきで、ここに吸水パッドをもう一枚挿入している人もいます。
いずれにしても、手術中に汗が垂れて手術を中断するなど本来あってはならないことですね。
そうならないよう、手術に入る前にきっちり準備が必要です。
「汗!」などと言い放つ外科医がいたら、陰でオペ室ナースに「あの人偉そうだね」と言われているかもしれません。
むろん手術室は比較的快適な室温で、よほど汗かきでないと垂れるほど汗をかく人はいないのですが・・・。
2階から見下ろす窓はない?
手術室が2階分吹き抜けになっていて、手術の様子を上の窓から見下ろす、というシーンをドラマでよく見ますね。
これは実際あるのでしょうか?
私自身はこれまで実際にこの仕組みを見たことはないのですが、古い病院では残っています。
私がSNS等で他の方から情報を得た限り、東北地方と関東地方に少なくとも2ヶ所は残っているようです。
しかし今では見学に使われていないようで、少し無駄の多い設備とも言えます。
なぜでしょうか?
まず手術は、手術室で足台に登って近くで見下ろさないと、何が行われているかはほとんどわかりません。
2階からだとあまりに遠すぎて、技術の良し悪しを評価することは困難でしょう。
ライバルのすごい手術を見て「なんてやつだ」と感心している人がいたら、むしろその人の凄まじい視力で「なんてやつだ」と思われる可能性があります。
また、術野を撮影するビデオが用意されている施設も多く、手術はモニターを見た方がわかりやすい、ということもあります。
これについてはこちらの記事で詳しく説明しましたね。
そういう意味でも、手術室を見下ろす窓は必要ないと言えます。
そもそも吹き抜けだと部屋の容積が大きすぎて換気するのも大変ですし、コスト面からも今では好まれないはずです。
もちろんドクターXの、大門の手術を上の窓から見下ろしてみんなが感動する、という定番シーンは必須ですが。
手術中に音楽は聴くのか?
手術中にお気に入りの音楽を聴くというのは本当か?
という質問も何度かいただいたことがあります。
患者さんにリラックスしていただくため、患者さんが手術室に入るときは和やかな音楽が流れていることが一般的です。
また手術中も、好きな音楽を流す麻酔科医や外科医はいます。
特に医師が音楽にこだわりがなければ、看護師が好きな音楽を流してくれることもあります。
ただ、私を含め多くの外科医は、手術中に音楽が流れていてもあまり耳に入っていません。
どんな曲が流れていたかと後で聞かれても、答えられないくらい聴いていないのが普通ではないかと思います。
手術に集中しているからですね。
余談ですが、以前知人から、
「手術で患者さんの体内にiPodを置き忘れる事故があったらしいね」
と言われたことがあります。
手術中に滅菌手袋でiPodなど触れるはずがないので、「絶対ありえない」と分かるのですが、彼は「ニュースで見たから本当だ」と真剣でした。
どうやら調べてみたら、虚構新聞の記事を真実だと思っていたようです。
「iPodで音楽を聴きながら執刀しており」
「開いた肺の部分にiPodを誤って落としたことに気付かないまま縫合」
「男性が『喉の奥から音楽が聞こえる』と違和感を訴えたため、エックス線検査をしたところ、iPodの残留に気付いた」
「今後は誤って患者の体内に残留しても危害が少なくてすむ、iPod nanoやiPod shuffleへの置き換えを医師に呼びかける」
と記事に書かれてあります。
笑い話ですが、ご丁寧にiPodが写ったレントゲン写真まで掲載されているので本気で信じたのでしょう。
もちろん手術中の音楽は、ラジカセ(古い)やiPodをスピーカーに繋いで部屋に流すタイプですよ。
まさかイヤホンなど使いません。
手術中にトイレに行きたくなったら?
これもよく聞かれるのですが、その答えとしては、
「手術中にトイレに行きたくなることがほとんどない」
ということになるでしょうか(人によると思いますが)。
私たちは、10時間、15時間とかなり長時間にわたる手術をすることもあるのですが、途中で休憩することはほとんどありません。
飲まず食わず、トイレも行かないのが普通です。
あまり尿意を催すこともないので、私自身は困った経験はありませんが、途中で行きたくなれば手術を一旦降りてトイレに行って戻ってくれば問題ありません。
ただ、ガウンを脱いで、トイレを往復して手洗いをし直して再度ガウンを着る、というのが面倒なので、多少の尿意があっても我慢するかもしれませんが・・・。
いずれにしても手術中は全く休憩しない、というのが普通です。
(例外的に、途中で体位変換が必要な手術では一時的に休めることもあります)
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左利きの外科医はどうしている?
ブラックペアン第2話では、左利きの外科医が手術中に器具を思わず利き手に持ち替えたせいで事故が起こる、というシーンがありましたね。
確かに外科医の中には、普段は左利き、という人もいます。
こういう人でも、手術は右手で行うようトレーニングされるのが普通です。
手術器具は原則右利き用ですし、何より執刀医が左をメインに使うと、周囲の人たちと手が干渉して困ることになります。
レストランで食事をする時に、自分の右にいる人が左利きだったら、と想像してみてください。
お互いの手が邪魔で食べにくいはずです。
手術でも、執刀医、第一助手、第二助手、器械出し看護師、全員が右利きであることを想定してフォーメーションが組まれます。
全員が左をメインに使えば問題ないかもしれませんが、右利きが多数派である以上、左利きの人でも右を使うのが安全です。
「あとはよろしく」は本当にある?
医療ドラマで、
手術中に外科医の出入りがやたらに激しいのはリアルなのか?
と質問いただくことも多いです。
医療ドラマではよく、大事な場面が終わると「あとはよろしく」と言って手術室を出て行く外科医がいますよね。
実はこれは実際の手術でもよくあります。
むしろ、最初から最後まで同じ外科医が執刀医の位置に立ち続けるケースに「skin to skin(メスを皮膚に入れるところから皮膚を閉じるまで)」と名前がついているくらいです。
たとえば私たちの消化器外科手術では、患者さんが手術室に入ってから、お腹が完全に開く(開腹)までに2時間近くかかります。
執刀医が教授や上級医の場合は、ここまでを若手が行い、途中で執刀医を交代することがあります。
また、閉腹(お腹を閉じる)にもかなり時間がかかるため、「あとは閉じておいてね」と言って執刀医が手術室を去ることもよくあります。
心臓外科手術であれば、人工心肺を回してから執刀医が手術室に登場することも多く、それまでの時間は消化器外科手術の比でないくらい長いです。
途中で人が変わるなんて不安!
と思う方がいるかもしれませんが、手術はチームで行うため、このように場面に応じて適切に布陣を変えながらベストな手術を患者さんに提供する方がむしろ安全です。
執刀医の定義について誤解している方も多いので、以下の記事もご参照ください
なぜ患者は希望の執刀医を指定しない方がいいのか?
手術はとにかく地味
現実の外科医の仕事は、実に「地味」です。
一部の緊急手術を除いては、ドラマのように手術中に予期せぬ事態が起こることはほとんどありません。
患者さんの身になれば、そうでないと困りますね。
淡々と落ち着いた雰囲気で手術は進行し、そしてほとんどの場合、何事もなく終わります。
手術が終われば、待ち合いスペースでお待ちのご家族の方に状況を説明しますが、この時も、
「手術は成功しました!」
などと興奮気味に言うことはありません。
「予定通り、手術は終わりました。これから順調に回復できるかどうか、慎重に見ていきます」
「引き続きよろしくお願いします」
のようなやりとりが普通です。
手術はあくまで長い治療の始まりに過ぎず、まだ何も成功したとは言えないからです。
現実の手術を知っている方は、ここに書いたことは「何を今さら、そんなの当たり前のこと」でしょう。
しかし医療ドラマを見て、「どこまでリアルなのか?」と思っている方は多いはずです。
「自分が手術を受ける時にあんな風では困る」と思っている方もいるかもしれません。
そういう方々の不安を解消することがこのブログの目的でもあります。
引き続きみなさんの疑問にお答えしていきたいと思います。
こちらもどうぞ!
緊急手術の前に外科医がやること|医療ドラマで描かれない真実1