70代女性の胃がんの検査結果が見落とされ、治療開始が約7カ月遅れるミスがあったというニュースがありました。
報道によると、事の経緯は以下のようなものです。
2016年1月に女性患者が胃の痛みを主治医に訴え、翌月に別の医師が胃カメラを施行。
胃カメラの際に生検(組織を取る検査)を実施。
カルテに「胃潰瘍(かいよう)あり」と書き、生検については記載しなかった。
その後、生検の結果は「胃がん」だったが、主治医は生検されていたことに気づかず、胃潰瘍として経過観察。
同年9月に女性が再び不調を訴え、後任の主治医が当時の胃がんの検査結果に気づく。
10月に胃を切除する手術をしたが、女性は約1年後に亡くなった。
会見で院長は、
「生存期間が短くなった可能性は完全には否定できないが、7カ月前でも胃がんのステージや治療内容は変わっていなかっただろう」
と説明。
病院は遺族に謝罪、慰謝料の支払いについて協議中。
実は今回のようなケースは、どの病院で起こってもおかしくはない、個人のミスで片付けてはならない問題です。
そもそも「内視鏡→がんの生検→結果確認」の流れにはミスが非常に起きやすい、と多くの医師は感じていると思います。
その理由も含め、消化器の専門医の視点から解説しましょう。
「胃潰瘍あり」と書いたのは誤りか?
胃カメラ(上部内視鏡検査)を行った際、明らかに胃がんを疑うような病変であれば「胃潰瘍あり」とは書きません。
普通は「胃がんの疑い」と書きます。
こういう時は、別の医師も後で写真を見れば明らかに胃がんと分かるので、どんな記載があろうとあまり治療に影響はありません。
あるいは、
「良性の胃潰瘍か、悪性の胃潰瘍(早期の胃がん)か肉眼的には識別しにくい」
というケースもあります。
こういうケースでも「良性の可能性が高いが、悪性の疑いもある」といった所見の書き方をします。
逆に「胃潰瘍あり」とだけ書いたなら、それは、
「肉眼的には、明らかに良性の胃潰瘍だと思われたから」
でしょう。
しかし、良性である可能性は100%とは言えなかったために「念のため生検をした」わけですから、いたって普通の診療行為と言えます。
「生検」とは、組織を一部取って、顕微鏡の検査(病理検査)に提出することです。
施設によりますが、臨床病理科の医師が2、3日で結果を出してくれることが一般的です。
病理医は「がんかそうでないか」を診断する「最後の砦」的な存在で、責任は重大です。
ちなみに「潰瘍(かいよう)」とは、簡単に言えば「粘膜がえぐれた状態」のことです。
胃がんや大腸がんはほとんどが潰瘍を作るので、「潰瘍」は良性、悪性を区別しない言葉です。
さて、では「念のため」行った生検について、所見に記載しなかったのは誤りでしょうか?
生検したことを記載しなかったのは誤りか?
生検をしたなら、「どの部位から生検をした」と所見に書くのが一般的です。
写真の中で、病変の周りに番号を書き、その番号と病理結果を対応させて後で確認できるようにします。
「1番と3番の場所から胃がんの細胞が出たが、2番の場所からは出なかった」
というような形でがんの範囲がわかるためです。
明らかに良性なら生検をしないこともありますが、生検をした以上は、
「どこからどう生検をしたか」
を書くのが一般的です。
逆に「生検をしなかった」ときも、そのことは生検をしなかった理由とともに書きます。
たとえば、「出血のリスクがあった」「明らかに良性」といった理由です。
したがって、生検を行ったのに「胃潰瘍あり」だけの記載で生検の記載がなかったのは、「一般的ではない」とは言えます。
ただしこれが「誤りか?」と言うと微妙なところです。
普通、主治医は内視鏡の写真と所見を見て、
「胃潰瘍と書いてあるけれど、念のため生検はしてるよね?」
と思ってオーダーを確認します。
生検されたかどうかは、電子カルテで簡単に確認できます。
そこで検体の提出がされていたら、
「やっぱり生検されているから数日後確認しよう」
となります。
所見に何と書かれてあろうと主治医が確認すれば良いだけの話です。
ちなみに、肉眼的に明らかな胃がんの場合は、生検は必須とは言えません。
「胃がんかどうか」は見れば分かるからです。
一般にこのケースで生検をする目的は、
「胃がんかどうかを調べる」
ではなく、
「胃がんの細胞のタイプ(組織型)を調べる」
です。
たとえば、スキルス胃がんと呼ばれるタイプになりやすい「印環細胞がん」や「低分化腺がん」なら「再発リスクが高い」といった判断基準にできます。
さて、
「生検をしたことに気づかず、病理結果を見なかったため胃がんと認識できなかった」
という流れからは、やはり、
「画像を見ても胃がんとは識別しにくいような微妙な病変だった」
のは間違いないのではないかと思います。
院長が、
「7カ月前でも胃がんのステージや治療内容は変わっていなかっただろう」
と話すのはそういう理由でしょう。
良性の胃潰瘍と識別が難しいような早期の病変で、かつ進行が遅ければ、数ヶ月治療しなくとも病状はほとんど変わらないものもあるためです。
(もちろん、進行度や組織型(がん細胞のタイプ)がわからない以上は、あくまで推論に過ぎません)
ここまでをまとめると、
「胃潰瘍」と書くくらいだから、悪性を疑うのが難しい微妙な病変だった
生検したことは書かなかったが、書いていなくても主治医は生検したかどうか電子カルテで確認するのが一般的
ということになります。
では結局、主治医が生検したかどうかを確認せず、病理結果を見なかったのがミスでしょうか?
広告
生検に気づかないのはミスか?
主治医が「生検されていたことに気づかなかった」のは、確かにやや不注意と言わざるを得ません。
前述した通り「良性と思われるけど一応生検はしたのかな?」と疑ってほしいところです。
ただし、これを個人の責任問題にするのは誤りです。
生検の結果は数日後に出ますが、主治医への「出ましたよ」という通知はありません。
当たり前ですが、毎日顕微鏡を見て診断する病理医は、1日に何十件もの検体を診断します。
いちいち悪性の結果が出るたびに主治医に連絡できません。
一方、内視鏡を行う内視鏡医(一般に消化器内科医)にとっては、毎日何十件もの胃カメラや大腸カメラをして、そのたび生検を行い、検体を提出しています。
ほとんどの患者さんは、他科の医師から依頼された見ず知らずの人です。
「自分が生検した人の結果がどうだったか」を確認することはありません(多すぎて不可能ですので当然です)。
よって、
「予想外の結果であってもいちいち通知はできないので、内視鏡検査を依頼した主治医が確認してください」
というスタンスです。
これは生検に限らず、画像検査など他の検査も同じです。
したがって、主治医が生検したことに気づかなければ、ほぼ永久に生検結果が見られることはありません。
電子カルテ内の情報が気づかないうちに更新されているだけです。
さらに言えば、もし生検されたことに気づいたとしても、
「数日後に必ず結果を確認する」と覚えておかなくてはならない
という関門もあります。
どの医師も、何百人もの患者さんを入院・外来で主治医として診ています。
医師も人間ですから、
「まず間違いなく良性だろう」s
と思っていると、ますます結果の確認を失念しやすくなります。
こんなに大切な情報の管理を、たった一人の個人の記憶に頼っていることが問題です。
一人の患者さんに複数の主治医が担当してダブルチェックすれば良いのでは?
と思う方がいるかもしれません。
外来で担当する患者さんは、科にもよりますが、医師一人当たり何百人に及びます。
一人でもギリギリ回している状況なのに、これに二人当てるとなるとまず外来は回らなくなります。
その結果、解決策は「一人で頑張って覚えておく」以外にないことになります。
本質的に、ミスが起こりやすいシステムになっている、ということです。
では、どうすればミスがなくせるでしょうか?
ミスをなくすには?
以上の理由で私は、この「病理結果の確認」にはエラーが起こるリスクがかなり高いと思っています。
今回の問題はどの病院で起こってもおかしくはなく、
「生検の結果を見なかったお前が悪い」
で問題が片付くわけではありません。
私は、生検に限らず検査結果の確認が必要な患者さんは「毎日見るメモに必ず書く」というアナログな方法で対応しています。
ミスをしたことは今の所ありませんが、今後も記憶ミスを完全に防げるか、というと自信はありません。
個人のヒューマンエラーをゼロにすることはできません。
したがって、
「これからは気をつけよう」
というのは解決策には全くなりません。
重要なのは、ヒューマンエラーが起こった時でも、患者さんに害が及ばないようなシステムを構築することです。
このシステムのことを「フェイルセーフ」と呼びます。
このシステムは「手間がかからないこと」が絶対条件です。
たとえば今回のケースで、
「これからは全内視鏡症例を科全体で振り返るようにしよう」
という手間のかかる対策は、解決策になりません。
「見落とし」というエラーなど、何万分の1という低い確率でしか起こりません。
おびただしい数の、しかもほぼ全てが「ミスなし」というような検査結果の振り返りを何時間もかけてやっていると、そのうち必ず「手抜き」になっていきます。
したがって、人間の手が加わらないような、
「電子カルテ上にわかりやすい形で通知が上がる」
「医師個人のスマホや端末に電子カルテから通知が自動的に届く」
というようなシステムの導入が必要だと思います。
電子カルテシステムは、その発達が牛歩のごとく遅く、いまだにかなり未熟です。
電子カルテには、現場の意見を吸い上げて、迅速にアップデートを繰り返すフットワークの軽さが必須だと思います。
ここを、メディアには追求してほしいと私は思います。
決して個人のミスを追求すべきではありません。