「教授の執刀を希望したのに、実際に執刀したのは別の医師だった—」
とある病院で、有名教授に執刀を依頼したにもかかわらず、実際には別の医師が執刀したとして、患者側が1億円の損害賠償を求めて提訴したというニュースがあった。
この事例では、術前に外来で教授が執刀を約束したことと、術後15日で患者が亡くなっていることが事態を複雑にしている。
実際私の外来でも、
「◯◯先生に執刀をお願いします」
と希望されることはある。
だが、一般論としては、誰が執刀するかは病院側に任せてしまった方が患者さんにとっては得策である可能性が高い。
その理由を説明したいと思う。
「執刀医」の定義とは?
まず、執刀医を強い希望で指定する患者さんは、「執刀医」という言葉の定義に関して少し誤解していることが多い。
中には外科医が一人で行う手術もあるが、そもそも多くの手術は3〜4人といったチームで行われている。
一つの手術には様々な局面があり、実はそれぞれの局面に応じて手術中に柔軟に布陣を変えることも多い。
つまり、3人の医師で手術を行うとき、「執刀医」「第一助手」「第二助手」という3つの配役が、手術を通して一定ではないということだ。
しかもそれは、医師らの力量や経験値、病気の進行度、体型、出血のしやすさなどによっても大きく異なる。
手術中に「阿吽(あうん)の呼吸」で判断されることも多い。
野球やサッカーのようなチーム競技にたとえると分かりやすい。
序盤で試合がまだ動いていない時、中盤で試合が拮抗し始めた時、終盤で勝負がほぼ決まりつつある時、それぞれの局面でどの選手をどのポジションに配置するのがよいかは違うだろう。
しかもそれは、相手チームの力量や布陣、天候の変化などの条件に応じて柔軟に変えなけれなければならないはずだ。
そして、その柔軟性が勝利の可能性を高める。
「最も熟練したベテラン医師が最初から最後まで『執刀医』の立場であることが手術の質を最も高めるとは限らない」ということだ。
布陣は外科医らに任せるほうがいい
例えば、消化器外科領域で一例をあげる。
胃がんや大腸がんに対して、近年腹腔鏡手術が主たる術式になりつつある。
腹腔鏡による胃がん手術や大腸がん手術には、第一助手が執刀医より熟達した医師である方が望ましい局面が多い。
なぜなら、腹腔鏡手術では往々にして、術野の「場を展開する」という第一助手の仕事の方が、執刀医より高度な技術を求められる場面が多いからである。
もっと分かりやすく極端な例をあげよう。
以前、私の妻が腰椎麻酔手術を受けたことがある。
対象とする患者にもよるが、一般的に腰椎麻酔は難度の高い手技ではないため、多くの病院では若手の医師が担当することも多い。
ところが、夫である私が外科医であることに気を遣ったのかは分からないが、麻酔を超ベテランの院長が行うことになった。
そして院長はこの腰椎麻酔に大変難渋し、通常の何倍もの時間をかけてしまった。
腰椎麻酔は普段から若手に任せて、大事な局面で自分が登場する、というのが常だったのかもしれない。
「その病院のいつも通りの布陣でやってもらうのが一番よい」という好例ではないかと思う。
妻は看護師なので、腰椎麻酔に多少時間を要しても「院長久しぶりだったのかしら」で済んだのだが、普通の患者さんなら不安で仕方なかったに違いない。
「誰が執刀医という立場でこの場を乗り切るのがよいか」は手術中に変化しうる因子で、しかも実際手術をする外科医にしかわからない。
いや、手術が始まるまで、外科医にもわからないことすらある。
ところが、事務的な手続き上、「執刀医」を一人、定義しなければならないことになっている。
従って、誰を「執刀医」にするか、という基準は、病院によって便宜上決めているというのが現状である。
「最初に皮膚に切開を加えた人」を執刀医とするケースもあれば、「手術で最も長い時間『執刀』の立場にいた人」を執刀医とするケースもある。
いずれにしても、手術はチームで行うものであって、一人の特定の執刀医を定義することは医学的にそれほど重要ではないということだ。
これらのことは、外科医にとっては常識的なことだが、患者さんは知らなくて当然である。
よって、「執刀医」に対する考え方の食い違いがトラブルの火種になりうるのである。
以上のことから私は、執刀医を指定された場合はいつも、上述のことをなるべく分かりやすく説明した上で、「手術中の布陣は私たちにおまかせください」と言うにとどめているのである。