ブラックペアンの視聴率は好調で、第8話は16.6%と最高記録を叩き出したそうである。
クライマックスに向け、いよいよ盛り上がるストーリーに最終回まで目が離せない展開だ。
だが今回も、胸に響く素晴らしいシーンと、真剣でありながらちょっと滑稽に見える「笑ってはいけない」シーンが混在。
まさに「ブラックペアンらしさ全開」と言える。
このブログのブラックペアン関連記事は今回で20本目、そろそろネタ切れの様相だが、内容の重複を恐れずストレートに感想を書いてみようと思う。
ロボット遠隔操作の虚実
ブラックペアンのこれまでの展開は、
「とりあえず誰かが手術を窮地に陥らせ、ギリギリのところで渡海が登場する」
というワンパターンが特徴であった。
毎回オチが読めるのに楽しめる、というのは、関西人的には「吉本新喜劇」で見慣れた手法である。
ところが第9話では、渡海が手術支援ロボット「カエサル」の遠隔操作を行うという新鮮な筋書き。
まさに、映画「パシフィック・リム」を彷彿とさせる、最高にカッコいい渡海と高階のタッグを見ることができる。
むろん冷静に考えると高階は「何もせずに座っているだけ」であり、自分なら外科医としてとても耐えられない仕打ちだが、このあたりはご愛嬌と言うべきだろう。
渡海がロボットを操る鮮やかさには目を奪われるし、手術ロボットの遠隔操作も夢があって良い。
ただいつものように、どこまで現実世界で可能かについては解説しておいた方が良いだろう。
まず現実的には、手術ロボットは遠隔操作どころか、コードレスでの操作がまだ不可能である。
現実に使われる手術支援ロボットは「ダヴィンチ」だが、その操縦席(サージョンコンソール)と本体の間にはゴボウくらいの太いケーブルが介在している。
遠隔操作が難しいのは、手元の繊細な動きをワイヤレスで正確に伝えるだけの成熟した通信機能が確立していないからだ。
ドクターXでは、アメリカから大陸を横断するテレサージェリーが描かれたが、これはまだまだ「夢のまた夢」である。
(そもそも内視鏡手術の際は手術室の床がケーブルだらけになる)
というより、現在の手術支援ロボットの目指すところは「遠隔で操作できること」よりむしろ、「半自動化」あるいは「全自動化」だ。
患者の臓器の位置関係や切るべき部分をAIが自動で認識し、外科医の腕を大きく補助することを目指している。
海外の学会に行けば、すでにこうした自動手術ロボットのプロトタイプの展示をいくつか見ることができる。
「遠隔操作」が必ずしもロボットの目指す姿でない理由はもう一つある。
ロボット手術では、常に「困ったら安全性を重視してすぐ開胸(開腹)する」というのが大前提であることだ。
よって執刀医は患者のすぐそばにいて、患者の状態が自分の目でしっかり確認できなくてはならない。
これは、執刀医が常に手術室内にいなければならないことを意味する。
いくらロボットが有能でも、人間の補助がなくては手術は成立しない。
執刀医は、助手たちに常に容易に指示を出すことができ、かつ困ったら自分が操縦席を離れて患者の体に直接手を下せる必要があるのである。
ちなみに、今回のケースで私が佐伯教授なら、ただただ「開胸してください」と土下座をしてでも頼みたいところである。
「みんなの様子がみたい。撮影しといてくれないか」
と言って病室から医局の様子を見たら、
「地図のない砂漠の中を歩くようなものか」
「本番まであと1週間!」
などと言って、文化祭を準備する学生のごとくスタッフたちがシミュレーションを繰り返しているのだ。
恐ろしいにもほどがある。
今回ばかりは渡海の、
「俺にメスを持たせればいいだけの話だ」
というセリフだけが正論に思えたのは私だけではないだろう。
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どうしても茶番に見える論文検索
佐伯教授の手術を、あくまでカエサルにこだわる東城大の外科医たち。
僧帽弁形成術と冠動脈バイパス術をロボットで同時に行う、という手術は前例がなく、世界中の論文を必死で検索する。
「イタリア語とドイツ語ならわかる」
と言って、英語以外の論文まで探ろうとする外科医も登場する。
教授の命を救うために一丸となる姿は、あえて心を無にして見れば「アツい展開」だ。
だがどうしても、「この人たち何やってるんだろう感」が頭をもたげて冷静になってしまう。
そもそもロボット手術があるこの時代に、Webで一瞬で論文検索できないのはさすがに辛い。
以前の記事でも紹介したように、現実にはPubMedという論文検索システムがあるため、世界中の論文が自宅からでも容易に検索可能だ。
論文検索に慣れた高階あたりに任せておけば、過去に似た報告があるかどうか、10分程度で結論を出してくれるだろう。
この現実に慣れている私たちにとっては、何人もの外科医が日常業務を中断して論文を探し回る姿は相当奇妙に見えてしまう。
またWebで検索してもヒットしないような、イタリア語やドイツ語のマニアックな論文を仮に引っ張り出して来た人がいても、あまり参考にはしたくはないのが本音だ。
真実なのかどうか怪しげな論文に教授の命を預けようとは誰も思わない。
論文に書かれた内容を臨床に応用できるかどうかは、それが掲載された雑誌の信頼性が全てだからである。
そしてその「信頼性」を表す数値こそがまさに、その雑誌の持つ「インパクトファクター」である。
ドラマが現実と乖離しているのは当たり前だが、この部分を脚色すると、見ている側としては少しもどかしく見える。
ただし、これはもちろん、日本外科ジャーナル編集長の池永の心変わりを描く伏線として必要な筋書きである。
これまで徹底的に悪役として描かれてきた池永は、出世だけを目指して人の命を軽視する西崎を見て、そして患者を救うこと以上に大切なことはないと信じる世良の説得で心を入れ替え、
「世界のどこかの誰かの研究が、他の国の誰かの命を救う。そのための論文です」
と、論文本来のあり方を語る。
彼が語る論文の役割は、まさに私が以前の記事「医療ドラマの定番、論文を全く書かない一流外科医はリアルか?」で書いた通りの内容だ。
ドラマ視聴者に対して正しい論文の姿を語ってくれた池永のセリフは、私たちをもはっとさせるほどに「真実」である。
ちなみに、医学雑誌の編集長(エディター)は、現実には医師である。
たいてい、どこかの大学教授が務めることが多い。
よって今回のような池永の姿が、論文の意味合いを理解した編集長の実際であると言って良いだろう。
最後に、私は世良と渡海の関係が好きである。
「僕みたいな凡人は家でも練習しないと追いつかないじゃないですか」
といって必死に努力する世良の謙虚な姿は、外科医の後輩として尊敬する。
そして渡海は一見才能だけの外科医に見えて、実はその能力は凄まじい努力によって生まれていることを努力家である世良は気づいている。
真の努力家は、努力する姿を人には見せない。
「見ている人はちゃんと見ている」ことを知っていて、わざわざ努力したことを主張する必要がないと思っているからだ。
渡海はそういう存在であり、世良は本人の気づかないうちに渡海から教育的指導を受けることができているのである。
というわけでいよいよ来週は最終回。
どういう展開になるのか、楽しみである。
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