新潟県の高校で7月、野球部のマネージャーであった女子生徒が練習直後に倒れて入院し、今月5日に死亡した。
「死因は低酸素脳症だった」と報じられている。
ニュースによれば、ことのいきさつはこうだ。
7月21日午後5時半すぎ、女子生徒は学校から3.5キロ離れた野球場での練習に参加。
練習を終え、午後7時半頃に男子部員と一緒に走って学校に戻った直後に玄関前で倒れた。
女子生徒は普段はマイクロバスで移動していたが、この日はけがをした部員がバスに乗るなどしたため、監督が「マネジャーはマイペースで走って帰るように」と指示していたとのことだ。
女子生徒が倒れたあと駆けつけた監督は、「呼吸が弱いけれどある」と判断し、救急車が来るまでの間AEDは使用しなかった、と報道されている。
警察は業務上過失致死の疑いも視野に入れ、関係者から事情を聴くとのことだ。
私は、この報道のトーンには2つの大きな問題があると感じた。
一つは、「監督が長距離を走らせたことが原因で低酸素脳症になった」と誤解される可能性があること(報道側もそういう意図で書いているように見える)。
もう一つは、AEDを使用しなかったことだけに言及して、初期対応が不十分であったと指摘するのは少し論点がずれているということだ。
低酸素脳症とは?
まず「死因は低酸素脳症」と報道されているが、低酸素脳症は「女子生徒がなぜ突然倒れたか」を説明するものではないことに注意したい。
つまり「学校まで長距離を走ったから低酸素脳症になった」のではない。
激しい運動で低酸素脳症になって死亡する、というのは医学的にはありえない。
何らかの原因で倒れて心肺停止状態になり、その結果として低酸素脳症が起こったということだ。
詳細は不明だが、倒れた原因としては、心疾患(心筋梗塞などの虚血性心疾患、不整脈など)が頻度的には考えやすい。
もともとこうした病気になりやすい何らかの素因があり、運動が発症の一つのきっかけとなった可能性はある。
低酸素脳症とは、心停止(あるいは重度の循環障害)によって脳に行く血流が不十分になったせいで脳が酸素不足となり、修復不能なダメージを負うことだ。
心停止によって脳への酸素供給が途絶えると、数秒以内に意識を失い、3〜5分以上の心停止で脳への障害が始まる。
こうなると、仮に心拍が再開したとしても脳に後遺症が生じてしまい、場合によっては永久に意識が戻らなくなる。
これが低酸素脳症である。
今回のケースでは入院から死亡まで2週間ほど間があることから、心拍は再開したものの、それまでの心停止によって長い時間脳が低酸素にさらされたために意識が戻らず、最終的に死に至った、という流れだと推測できる。
繰り返すが、「長距離を走ったせいで酸欠になった。だから走って帰るよう指示した監督が悪い」は誤りである。
そもそもこうした病的素因を事前に把握することなど不可能だからだ。
問題は倒れたあとの対応である。
一次救命処置(BLS)は適切になされたのか、ということだ。
「AEDは使用しなかった」とだけ報道されているが、一時救命処置に必要なのはAEDだけではない。
意識を失って呼吸も弱くなっている女子生徒を前に、何もせずに救急車を待ったわけではあるまいか、ということだ。
一時救命処置(BLS)とは?
一次救命処置とは「BLS:Basic Life Support」と呼ばれ、心肺停止状態になった人に対して行う一連の応急処置のことである。
簡潔に書くと以下のような流れになる。
目の前で人が倒れた・意識のない人を見つけた
↓
緊急通報とAEDの要請
↓
別の人がAEDを取りに行く
大きな声で呼びかけ、呼吸していないか正常な呼吸でない場合にCPR(心肺蘇生)を開始する。
AEDを入手できたらAEDを使用する。
詳細は日本ACLS協会のページ参照。
これは医療関係者以外でも行わなければならない処置だとされている。
なぜなら、救急車が到着するまでに一般人が心肺蘇生を行うことによって、生存確率が飛躍的に上昇するからだ。
この心肺蘇生のことを「バイスタンダーCPR」と呼ぶ。
文字通り訳すと「通りがかりの人による心肺蘇生」である。
誰でも「目の前で突然人が倒れたらどういう順番で何をすべきか」を知っておく必要があるということだ。
教師であればなおさら必須の知識であり、学校内でBLS講習を受けているのではないかと思う。
ではこの「心肺蘇生」とは具体的には何を指すか。
胸骨圧迫と人工呼吸である。
胸骨圧迫とは、通称「心臓マッサージ」と呼ばれる行為で、体重をかけて胸を繰り返し押し込むことだ。
テレビなどで見たことがある方も多いだろう。
胸骨圧迫は救命のためには最も重要で、人工呼吸は「可能であれば」という位置づけだ。
判断に自信がなくても直ちに胸骨圧迫。
一にも二にも、とにかく胸骨圧迫である。
胸骨圧迫においては、1分間に100回のテンポで、少なくとも5cmの深さまで圧迫し、圧迫の中断は最小限にすることが大切だとされている。
肋骨が折れることもあるほど、しっかりとした圧迫が重要である。
医療ドラマなどで見る胸骨圧迫は、実際より「遥かに優しい」と思った方が良い。
なぜ胸骨圧迫がこれほど大切なのか。
胸骨圧迫の一つの目的は、止まってしまった心臓を、外から繰り返し圧迫することで心臓のポンプ機能を代替することだからである。
本来自動で動かなくてはならないポンプを、体外から手動で動かすのである。
適切な胸骨圧迫を行えば、通常の30~40%の血液が心臓から拍出できる。
これによって脳への血流をかろうじて維持させ、脳障害を軽減できる。
AEDは電気刺激によって自己心拍の再開を促すものだが、AEDで電気ショックを行う場合でも、それ以外の時間は胸骨圧迫を絶えず行わなければならない。
胸骨圧迫は、「心臓マッサージ」という名前から、心臓を刺激して心拍の再開を促す方法と考えられているかもしれない。
確かにその一面もあるが、もっと重要な目的は、前述の低酸素脳症をできる限り回避することにある。
BLSは誰しもが身につけておくべき処置で、運動部の顧問ともあればなおさらである。
むろん、これらが適切に行われたとしても命を救えないことは多くある。
だが、今後の対策を考える上では、この女子生徒を救うためにでき得る限りのベストを尽くしたか、ということを問う必要があるだろう。
<追記>
この記事に、「低酸素脳症 AED」や「低酸素脳症 応急処置」というワードで検索してたどり着いた方がいらっしゃるようである。
予想通り、まさに私が懸念していた誤解が生じている。
繰り返すが、低酸素脳症は長時間の心肺停止の結果として起こる病態である。
脳の不可逆的な変化で、これ自体を治療する方法はない。
低酸素脳症を治すのではない。
心肺停止状態に対してAEDを使う、応急処置を行うことで低酸素脳症を防ぐのである。
この報道に関して続報があったため、これについても記事を書いた。
合わせてお読みいただければと思う。