日本航空(JAL)と全日空(ANA)には「医師登録制度」があります。
2016年に開始された制度で、事前に機内にいる登録医師が把握され、急病人が発生した際に客室乗務員がスムーズに医師に診療行為を依頼できます。
乗客にとっては、機内のドクターコールによって不安感を抱かずに済む、という利点もある制度です。
この制度が登場した当初、私も親交のある外科医の中山祐次郎先生が丁寧な考察をYahoo!ニュースですでにされており、この制度の是非や改善点に言及されています。
あれから2年が経ちました。
果たして現在、医師はこの制度に登録すべきでしょうか?
私は幸い、これまでドクターコールに遭遇したことはありませんが、依然として不安の残るこの制度をリサーチし、現時点で得られた情報をもとにまとめておきたいと思います。
医師登録制度とは何か?
JALでは2016年2月から、ANAでは2016年9月から医師登録制度が開始されています。
JALは「JAL DOCTOR登録制度」、ANAは「ANA Doctor on board」という名称です。
機内で急病人や怪我人が発生し、医師の援助が必要となった場合、登録医師に客室乗務員が直接声をかけることができる仕組みです。
いずれも、登録医師が実際に医療行為に参加するかどうかは任意で、飲酒や体調不良などで対応が困難な場合は辞退できる、との文言が各社のホームページに書かれています。
登録は、JAL、ANA共にそれぞれのホームページから行うことができます。
共にそれぞれのマイレージ会員であれば登録できますが、JALの場合は日本医師会発行の医師資格証の提示が必要です。
医師資格証とは、医師であることを電子的に証明できるカード型の証明書で、日本医師会ホームページより申し込むことができます(医師免許証はA3の表彰状サイズなので携帯できない)。
この医師資格証の発行にはお金がかかります。
日本医師会員であれば発行手数料が5000円、それ以後5年ごとに更新料として5000円が発生します。
非会員の場合は、これに加えて年間利用料が6000円毎年上乗せになります(HP参照)。
私はJALマイレージ会員ですが、日本医師会の非会員であるため、JALの医師登録制度に加入するなら医師資格証を新たに発行する必要があります。
日本医師会の会費は、31歳以上で年間68000円(医師賠償責任保険込み)ですので(HP参照)、「これを機に日本医師会に入っておこう」とは容易には言い難いでしょう。
ちなみに、勤務医で日本医師会に加入している人は約半数(49%)とされています。
制度に登録すれば、特典としてJALは国内ラウンジサービスを年3回まで利用可(こちらから引用)、ANAは3000マイルの付与があるようです(中山先生の記事より引用)。
しかし、このような特典など些細なもので、最も重要な、医師が最も気になる大きな懸念があります。
何かあった時の補償の問題です。
院外での患者対応が難しい理由
医師が院外での患者対応に二の足を踏むのは、
十分な医療機器も人手もない状況で緊急性の判断を迫られ、その判断に誤りがあった場合、医療過誤として法的責任を問われる恐れを感じているから
です。
飛行機の中では、たとえ熟達した医師であっても、診たこともない患者に対し、限られた医療資源を使って他の医療者の手も借りずにできることは多くありません。
ちなみに米国を始め、諸外国には「無償での善意の行為には責任を問われない」とする「善きサマリア人の法」があり、広く知られています。
日本にはこれがないため、善意で行った行為であっても、それが患者さんにとって不本意な結果につながった場合、訴訟問題に発展し、法的責任を問われる恐れがあります。
これは以前より、絶えず問題視されてきたことです。
実際、自宅前の路上で倒れた急病人を救命するために気管切開を行った医師が、処置の際の出血で患者を死亡させたとして損害賠償請求された、という例を始め、聞くだけで医師を萎縮させるような事例は我が国には多数あります。
こうしたことが原因で、飛行機内のドクターコールには応じない医師も多いのです。
どんな医師でも、急病や怪我で苦しむ人を救いたい、という使命感はあります。
しかし医師も人間です。
ひとたび多額の賠償責任を負えば家族共々路頭に迷うかもしれない、というリスクを負ってまで、医師としての使命感を果たそうとする人が多いとは思えません。
以上のことから、医師登録制度では「賠償責任に関してJALやANAがどのような対応をするのか」ということが最も気になるポイントになります。
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賠償責任が生じた場合の対応
JALのホームページには、
「医療行為を受けたお客さまに対し民事上の損害賠償責任が生じた場合には、故意、重過失の場合を除き、当社が付保する損害賠償責任保険を適用いたします」
とあります。
同様に、ANAのホームページでも、
「実施していただいた機内医療行為によって、医療行為を受けられたお客様に対する損害賠償責任が発生した場合、故意または重過失の場合を除き、ANAが責任をもって対応させていただきます」
となっています。
気になるのは「故意または重過失の場合を除き」の文言です。
「故意」はともかく、飛行機内というリソースの限られた状況での「重過失」をどう判断するのでしょうか?
これについて、医師会の顧問弁護士は、
「『重過失』の程度も、航空機内という様々な制約を受けた、特殊な状況下での診療行為に対しては相当の責任軽減がなされると解され、患者が不幸な転機となった場合でも、医師の過失が認められる可能性は極めて低い。」
「刑法上も、刑事責任が生じる可能性は極めて低く、ゆえに捜査機関が刑事告訴を受理する可能性も低い」
と述べています(こちらから引用)。
一方、先述の中山先生の記事でもこれについて言及し、
「知人の法律家に意見を伺うと、『医療過誤による損害賠償訴訟で重過失の有無を判断した判例はおそらく無いのではっきりはしません』とのこと」
と書かれ、その法的な判断は判例がないため難しい、としています。
なかなかはっきりした解釈が難しいポイントです。
ここに明文化された規則がない以上、機内のドクターコールに医師が手を挙げないのと同様に、医師登録制度に積極的に登録しようという医師は多くはないでしょう。
では、個人で加入する医師賠償責任保険で機内の事故をカバーすることはできないのでしょうか?
機内の事故を医師賠償責任保険でカバーできる?
多くの医師は、不測の事態に備えて医師賠償責任保険に加入しているかと思います。
非常勤先の事故でも補償されるこの保険は、機内の事故をどう扱っているでしょうか?
民間医局に問い合わせてみたところ、
・補償範囲は日本国内に限られる
・国内便の航空機内での事故については補償される
・国際便の場合は海外の領域に入った時点で補償対象外となるが、航空機内の日本領域内がどこまでかという確定したものがないため、補償の対象となるかどうかの判定が難しい
との回答でした。
一方、日本医師会は会費に医師賠償責任保険の保険料が含まれています(詳細はこちらの記事で解説しています)。
日本医師会にこの点を問い合わせてみたところ、
・日本国内の医療行為を補償対象としている
・国際便であっても、日本国内(日本領空内)であれば補償の対象
・日本領空外は対象外
とほぼ同様の返事でした。
したがって、国内便であれば、これらの医師賠償責任保険に入っていれば航空各社の保険に依存する必要はないということです。
国際線の場合のみ、航空各社がどこまで補償してくれるのかが懸念材料です。
医師登録はすべきかそうでないか?
今回、医師登録制度についてかなりリサーチしましたが、明確な結論は得られませんでした。
大野病院事件を始め、誠意ある医師の行為に法的責任を負わせ、医師を萎縮させる事件はあとを絶ちません。
魅力的な制度であっても、法的整備が十分でない以上、それを現場に生かすのは難しいのではないでしょうか。