「ブラックペアン」の治験コーディネーターの描写が現実と著しく乖離し誤解を招くとして、5月2日に日本臨床薬理学会が抗議文を発表しました。
この時いくつかのネットニュースも取り上げ、大きな話題になりました。
詳細はこのブログでもまとめています
さらに今度は、医療機器の治験に関わる医療機器産業連合会が5月21日、ブラックペアンに対して批判的な文章をHP上で公開。
「現実と大きくかけ離れる描写があり、大変な病と闘っている患者の不信感をあおる心配がある」と指摘したことが報じられています。
→TBS『ブラックペアン』に医療団体が続々と抗議/J-CASTニュース
これまでの医療ドラマでも、医師の視点から見て「ありえない」と思うシーンはいくらでもありました。
フィクションですから、現実と乖離しているのは当たり前。
にもかかわらず、なぜ今回ブラックペアンだけが医療団体からこのように抗議されてしまうのでしょうか?
このブログで私は医療ドラマに関連する記事を多く執筆し、気づけばこの記事は140本目です。
これまで医療ドラマを分析してきた経験から、ブラックペアンが批判される理由と、医療ドラマに求められる条件について解説してみます。
真顔で冗談を言う怖さ
ブラックペアンに対して私が医師として感じるのは、「不謹慎なジョークを真顔で言う人」に対する一種の恐怖心です。
現実と乖離した医療ドラマとしてよく例に挙がる「ドクターX」は、「笑いあり涙あり」のコメディタッチが魅力です。
医師の侮辱と取られるような描写もあれば、患者さんに対する不謹慎な描写も連発しますが、誰が見てもジョークだと分かります。
「医師や患者さんが侮辱されている」と真剣に怒る人もいるかもしれませんが、製作者側もこれを理解した上でコントのような演出をするので、
「さすがにジョークで言っているのにムキになってけなすのは大人げないよな」
というブレーキがかかります。
ジョークであることを言外に匂わせながらジョークを言うので、誰もそれがジョークであることを疑わないわけです。
対照的に、「コードブルー」や「コウノドリ」のようなドラマは、「おふざけなし」の非常に硬派なドラマです。
「真剣な顔で真剣なことを言っている」ので、見応えがあると感じます。
それなりにリアルなので、「実際にこんなこともあるかもしれない」と思われてもそれほど困らない作りです。
そもそも社会に対して強いメッセージ性を持った作品なので、表現の方法を慎重に選んでいます。
ところがブラックペアンは、ややこのバランス感覚に欠けるところがあり、少し不安になることがあります。
手術は、心臓外科医が監修しているだけあって見応えはあるし、ロボット手術に至っては、ドラマ史上初、本物の「ダヴィンチ」を使って撮影されています。
まさに硬派な、リアルに作り込んだドラマに見えます。
しかし、逆にそのせいで「知識のない人が見るとジョークとは分かりにくいジョーク」が多いのも特徴です。
治験コーディネーターが患者さんに300万円を渡して治験参加を促し、医師には謝礼で菓子折り(中身はもちろん大金)を渡し、高級レストランで接待
「インパクトファクター」が医師の地位に最も重要な因子とし、これを医師たちが権謀術数を弄して奪い合う
もちろん知識のある人はリアルとジョークの境界線をちゃんと理解しています。
しかし全体の雰囲気が真剣そのものであるだけに、
「冗談を冗談だとは気付かない人が多いのではないか」
と不安を抱く専門家が増えます。
これが、「医療現場に混乱をもたらすのではないか?」という危機感につながり、医療団体からの抗議に発展したと考えます。
メインテーマだけは丁寧な監修を
近年の医療ドラマはたいてい、現役医師が監修しています。
たとえば、コードブルーは救急医が監修していますし、コウノドリは周産期医療に関わる産婦人科医、新生児科医らが監修しています。
それぞれ救急の現場と、周産期医療の現場描写には非常にリアリティがありますが、もちろんドラマなのでフィクションらしいシーンも普通にあります。
たとえばコードブルー3rd SEASONでは、血液感染リスクのある患者の針刺し事故後の対応が現実と乖離している点を、私はブログ記事で紹介しました。
コウノドリでも、救命救急センターでの救急医の描き方はリアルではなく、同様に私は記事で「実際の救急医とどう違うか」を紹介しています。
では、
ここをリアルにする必要があったか?
と言われると、私は「全くない」と答えます。
コードブルーはあくまで救急医療がメインテーマ、コウノドリは周産期医療がメインテーマ。
このメインの部分が専門家によってしっかり監修され、ドラマを見た人たちに誤解を与えないよう慎重に作られているため、批判も出ません。
逆にメインテーマでないところまでリアルにするために、安全対策委員会に関わる医師や感染症専門医に針刺し事故後の対応を監修してもらい、救急医にコウノドリの救急対応シーンを監修してもらうなどナンセンスです。
そんなことをやっているとキリがありません。
医療現場は、様々な職種が様々な仕事をしています。
あらゆるシーンをリアルにするには、あらゆる専門家の監修が必要、ということになってしまいます。
ドラマにそんなことは誰も求めていません。
ではブラックペアンはどうでしょうか?
もはや「治験」は一つのメインテーマになっていると感じます。
治験コーディネーターは毎回現れ、かなりの存在感を持っています。
最初の4回は「スナイプ」と呼ばれる心臓の僧帽弁置換術のための新しいデバイスの治験。
第5回からは、手術支援ロボット「ダーウィン」の治験が始まりました。
そして治験の成果は誰のものになるのか、権利の奪い合いが続いています。
ブラックペアンは紛れもなく、
「治験を取り巻く医療者たちと患者を描いたドラマ」
になっています。
これほど治験を前面に押し出すのであれば、治験に関するきちんとした情報収集と、治験コーディネーターを含む、治験に直接関わる人の監修が必要だと感じます。
特に治験のように目新しい、あまり一般に知られていないテーマをメインに据えるならなおさらそうです。
むしろ「メインテーマに専門家の手が入っていない作品が大勢の目に触れる」という状況に「恐れ」を感じてほしいとも言えます。
ちなみに、原作は医師である海堂尊さんが執筆されていることもあって描写は非常にリアルです。
原作では一切なかった「治験」という新たな要素をドラマのメインテーマに据えたのは、原作を読んだ人から見れば意外とも言えます。
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現実との距離感を認識する
ドラマはドキュメンタリーではないので、現実と乖離していて当たり前です。
ドラマ製作者も「現実と乖離していること」は分かった上で演出しています。
ただし重要なことは、製作者は「現実からどのくらい距離があるか」まで分かっておく必要があるということです。
現実と1センチ離れているのか、10メートル離れているのか、100キロ離れているのか?
「現実とどのくらい違うのか」を考えながら表現しないと、
「現実との距離は1センチ程度だろう」
という目論見でやった演出が、「実は100キロ離れていた」という事態が起こる危険性があります。
これが医療ドラマでは、
「実際に病気で苦しみ、悩む患者さんが見てどう思うか」
という観点で見た時に、大きな批判が集まるリスクがあるわけです。
たとえばコードブルーでは災害現場に医療スタッフがドクターヘリで出向くシーンが多いのですが、彼らは防護服も防護靴も身につけず、マスクもヘルメットもなしの軽装で現場に挑みます。
そして二次災害で大怪我をする。
しかし、「これがどのくらいあり得ないことか」を製作スタッフは認識した上で、現実との距離感を分かった上で演出しています。
仮に批判する人がいても、
「全員が重装備だったら誰が誰かわからないし、俳優さんの表情も見えない、全く面白くないでしょ?」
と返すだけです。
現実との距離感を知るには、現実そのものを知っている必要があります。
すると、演出の中で、
「このシーンでこの距離はまずいのではないか?」
という発想が必ず出てきます。
たとえば治験では、患者さんへ治験参加のメリット、デメリットを正確に説明し、それを十分に理解していただいた上で、「患者さんの意思で参加すること」が最も重視されます。
この最大限にデリケートな部分を「お金で誘導する」とする演出は、いわば「現実と100キロ離れた演出」です。
もし現実を知っていれば、
「さすがにこのシーンに限って100キロは倫理的にまずいのではないか?」
というブレーキが働き、現実に即して描くか、大金を渡す演出をどうしてもしたいなら、ドクターXのようにメロンも一緒に渡して現実と1万キロくらい離すこともできます。
「忍たま乱太郎」の原作者、尼子騒兵衛さんが、アニメで寛永通宝の小判が出てきたのを見て、再放送では500円玉に替えてもらった、という有名な話があります。
描かれた時代に寛永通宝は存在しなかったからです。
当時の風俗や背景が子供に誤って伝わるのは良くない。
中途半端に現実に近づけるよりは、思い切り距離を取った方が良い。
これは現実を詳しく知っていないとできないことです。
ドラマへの批判は、「たかがフィクションにムキになっている」ととる人もいるでしょう。
しかし今回のことに対してタレントのふかわりょうさんが、
「『またテレビでやれることが減ってしまった、そんなこと言ったら何もできなくなる』というような話とは一緒にしてはいけないし、表現の幅が狭くなるということではない」
と言っていました。
全くその通りだと思います。
これからも誰もが気持ち良くドラマを見るには、「なぜ今回は批判が高まったか」を個別に考察する必要があると私は思います。