関西の産婦人科病院で1月、無痛分娩をした女性が死亡した事故で、担当した男性院長が、業務上過失致死容疑で書類送検されるとのニュースがあった。
今回院長は、女性が呼吸困難に陥った際に、
「パニックになり、強制換気ができなかった」
と話しているとされ、警察はこの点を過失に問えると判断したとのことだ。
これについて、今回いくつかの報道で、
「人工呼吸器を装着しなかったことが問題」
とされているが、これでは問題視すべきポイントが少しずれている。
今回は、なぜ無痛分娩の際に呼吸が止まったのか、強制換気とは何なのか、について簡単に解説したい。
無痛分娩の最中になぜ呼吸が止まったか?
一般的に無痛分娩とは、硬膜外麻酔という麻酔法を用いて、分娩の際の痛みをとることを指す。
分娩の前に、患者さんに横向きに寝てもらい、背中に針を刺して脊髄の近くに細いチューブを挿入し、そこから麻酔薬を投与する。
これによって、痛みをつかさどる神経を直接ブロックすることができる。
痛みは完全にゼロにはならないが、軽くすることは可能である。
私たち外科医は、この硬膜外麻酔をほとんどの開腹手術で患者さんに受けていただいている。
開腹手術は、消化器外科、産婦人科、泌尿器科、心臓血管外科など様々な科が行うので、大きな病院では硬膜外麻酔が毎日のように行われている。
これを行うのは、一般的には外科医ではなく麻酔科医である。
硬膜外麻酔は痛みを和らげる効果しかないので、補助的にしか使えない。
したがって、当然これだけで開腹手術はできない。
あくまで全身麻酔が終わった後の、術後の傷の痛みをとるのが主な目的である(術中の鎮痛効果もある)。
術後もチューブを入れたままにしておき、傷の痛みが最も強い数日間だけ、痛み止めを持続的に流すことで鎮痛効果を得る。
一方、分娩は開腹手術ではなく、本来は「麻酔なし」で行うものである。
硬膜外麻酔は、この分娩時の痛みを少しでも和らげるのが目的ということになる。
報道にあるような産婦人科病院では、産婦人科医自らが硬膜外麻酔を行うことも多い。
この硬膜外麻酔で、「なぜ呼吸が止まったのか?」と疑問に思った方は多いのではないだろうか?
この仕組みはそれほど難しくない。
注入する麻酔薬が、本来入れるべき「硬膜外腔」ではなく、一段階深い「くも膜下腔」に入ってしまったからである。
くも膜下腔は、髄液と呼ばれる透明の液体で満たされた空間で、頭からお尻まで広がり、脳から脊髄を包み込んでいる。
このくも膜下腔に麻酔薬を入れること自体は、脊椎麻酔と呼ばれる別のタイプの麻酔法でよく行われている。
たとえば、帝王切開やヘルニアの手術など、下半身だけの手術を行う場合に行うのが脊椎麻酔である。
「脊髄くも膜下麻酔」や「腰椎麻酔」、通称「下半身麻酔」と呼ばれることもある。
下半身だけしか手術しないのに、全身麻酔をする必要はないからである。
手術をするとなると、当然「痛みを和らげる」だけでは不十分である。
「痛みがゼロ」でなくては患者さんは耐えられない。
脊椎麻酔で、くも膜下腔に「ごく少量」の麻酔薬を入れると、これが可能になる。
硬膜外麻酔とは目的が全く違うことに注意が必要である。
ここで重要なのは、
脊椎麻酔は「ごく少量」の麻酔薬でないといけない。
硬膜外麻酔は、それなりの量の麻酔薬が必要。
ということだ。
もし、
「硬膜外麻酔を行うつもりで誤って脊椎麻酔になった」
という場合、本来よりはるかに大量の麻酔薬がくも膜下腔に注入されることになる。
注入された大量の麻酔薬は、くも膜下腔を急速に広がり、胸の方まで上がってくる。
呼吸をつかさどる神経をブロックし、呼吸が止まる、という流れになるのである。
以下の記事でも解説しています。
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強制換気とは何か?
次に、今回問題となっている「強制換気をしなかった」というポイントについて説明する。
強制換気とは、呼吸が止まっている人に対して、強制的に呼吸をさせる(換気する)ことである。
たとえば全身麻酔手術では、麻酔薬で呼吸が止まるほど完全に眠ってもらうため、強制換気が必須になる。
この「強制的に呼吸をさせる」方法としては、「手動」と「自動」の2種類がある。
手動で行うものを「用手換気」と言う。
「手を用いて行う換気」という意味だ。
大きなマスクを口に当て、風船のようなバッグを揉むことで行う。
この風船のついたマスクには「バッグバルブマスク」や「ジャクソンリース」と呼ばれるものがある。
このシーンは、医療ドラマなどで見たことがある人も多いはずだ。
(写真はバッグバルブマスク)
一方「自動」とは、口から気管へチューブを入れて人工呼吸器につなぎ、自動的に換気することを指す。
全身麻酔手術では、人が何時間もバッグを揉んでいるわけにはいかないので、これを器械に任せる、というわけだ。
患者さんの呼吸が止まっても、用手換気ができるのであれば、バッグを揉み続ける限り命に別状はない。
極論を言えば、人工呼吸器がない病院でも、自発呼吸が戻るまで1時間でも2時間でも手動でバッグを揉んでいれば問題ないということだ。
冒頭で「ポイントがずれている」と前述したのはそういう意味で、人工呼吸器を使用しなかったことだけが問題というわけではない。
おそらく理想的な流れとしては、
呼吸停止したことに気づく
↓
オペ室看護師にバッグバルブマスクの用意を指示
(慣れた看護師であれば指示すら不要)
↓
患者さんの頭側に回って気道確保
↓
マスクを口に当て、手動で強制換気
↓
自発呼吸が戻らなければ気管挿管
↓
人工呼吸器につないで、麻酔薬が切れるのを待つ
となるのではないかと思われる。
また、呼吸停止だけでなく、他にも血圧低下など様々な異常が起こっていたはずで、これらに適切に対応したかということも気になるところだ。
当然私は現場に居合わせたわけではないので、詳細は全く分からない。
だが、報道を見ただけでは多くの方が疑問に思うポイントがあると思われたので、解説した次第である。